2007年07月15日

名鉄を理解して観光

名鉄を理解して観光の第2弾です!!

現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、(旧)「名古屋鉄道」が1930年(昭和5年)9月に改称した「名岐鉄道」(名岐)と「愛知電気鉄道」(愛電)が合併して誕生したものである。

大正中期から昭和初期の愛電は、福沢諭吉の甥(後に養子)である福沢桃介が経営に携わり、自らの構想である「東海道電気鉄道」(日本電気鉄道の計画を引き継ぎ、東京〜名古屋間の鉄道敷設を目論んで、豊橋市まで免許を収得)の実現に向けて、当時としては画期的な高速鉄道を目指して神宮前〜豊橋間の路線を高規格で建設していた。このため設備投資が嵩んで相当な負債を抱えており、あまつさえ、当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛電は深刻な経営難に陥っていた。

その後、福沢は経営責任を取る形で愛電から手を引いたものの、福沢の理想主義的で強引な経営手法を間近に見て学んだ藍川清成らが経営を引き継ぎ、結局、会社の体質そのものは変わらなかった。一方、合併前の名岐は多額の内部留保を蓄えて名古屋式経営のお手本とも言うべき無借金経営を行っており、資本金の規模こそほぼ同等ではあったが、その財務内容には雲泥の差が付いていた。

折りしも1930年代の日本は、世界恐慌を境として大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻り、欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間にも次第に競争から合同(民族団結)への機運が高まってきた。その時点では、戦時立法である「国家総動員法」や「陸上交通事業調整法」の成立前であったが、長引く昭和恐慌の影響もあって、当地の交通事業を再編(統合)すべく名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。

当初名岐側は、事実上「愛電の救済合併」との意味合いが強く、相当に不利となるこの合併を渋っていたものの、当時の名古屋市長が仲立ちしたこともあって結局この話を断れず、更には愛電側の顔を立てるため、表面上は対等合併(合併比率は名岐1:愛電0.8)の形を取って行われた。

このため、新生「名古屋鉄道」初代社長には名岐社長である跡田直一の就任が内定していたが、合併日(8月1日)を目前にして病死(7月17日)した事から、急遽、愛電社長の藍川(同副社長に内定)が繰上がる形でその座に就く事となり、旧名岐の社員からは、病床にあった跡田の死を見越した「藍川の会社乗っ取り」との声も聞かれた。

「陸上交通事業調整法」が施行された後も、愛知・岐阜の交通各社は法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした統合は「戦時」と言う時勢の後押し(法律の趣旨に沿うための半強制的な風潮)はあったものの、形式上は各社の自主的な判断で行われた。




wikipediaより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E9%89%84%E9%81%93

タグ:名鉄 観光 計画
posted by 横綱 at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/47840251

この記事へのトラックバック


Powered by Seesaa